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車塚古墳

(くるまづか こふん)

壬生町に残る下野最大級の終末期円墳

車塚古墳は、栃木県下都賀郡壬生町壬生甲に所在する古墳で、別名「壬生車塚古墳」とも呼ばれています。古墳時代終末期に築かれたと考えられるこの古墳は、国の史跡に指定されており、古代下野(しもつけ)地域の歴史を考えるうえで極めて重要な遺跡です。

車塚古墳は、周辺に点在する数多くの古墳からなるしもつけ古墳群(壬生地域)の一つで、近隣には牛塚古墳などの著名な古墳も存在します。壬生町を代表する歴史遺産として、現在も多くの歴史ファンや観光客が訪れています。

古墳の立地と周辺環境

車塚古墳は、栃木県南部を流れる黒川左岸の台地上に築かれています。この立地は、周囲を見渡しやすく、古代において権力者の墓を築く場所として非常に適していました。古墳の西側には牛塚古墳が隣接しており、壬生地域一帯が古代豪族の重要な拠点であったことを物語っています。

栃木県最大級を誇る円墳の規模

車塚古墳の最大の特徴は、その圧倒的な規模にあります。墳形は円墳で、直径約84メートル、高さ約11メートルを測り、これは栃木県内の円墳として最大規模にあたります。

墳丘は三段に築成されており、特に第一段は幅広く平坦な基壇状を呈しています。この形態は、下野地域に特徴的な「下野型古墳」と呼ばれる様式で、地域性を強く示す貴重な例です。

周濠と外周溝を備えた壮大な構造

墳丘の周囲には、周濠・周堤・外周溝からなる二重構造の防御施設が巡らされています。周濠はほぼ完全な形で残っており、外周溝まで含めた古墳全体の直径は約135メートルにも及びます。この規模から、被葬者が当時の下野国において極めて高い地位にあった人物であることが推測されます。

また、墳丘の表面には川原石による葺石が施されていた痕跡が確認されており、築造当時の威厳ある姿を今に伝えています。

須恵器が語る祭祀と葬送儀礼

発掘調査では、墳頂部から須恵器の長胴甕が約50個検出されています。これらは墳丘装飾や葬送儀礼に用いられたと考えられ、古墳時代終末期における祭祀のあり方を知る上で重要な資料です。須恵器がこれほどまとまって確認される例は少なく、学術的にも高く評価されています。

横穴式石室をもつ埋葬施設

車塚古墳の埋葬施設は、横穴式石室で、南南西方向に開口しています。石室は羨道と玄室から構成され、石材には凝灰岩の切石が用いられています。

石室の規模

玄室:長さ約3メートル、幅約2.8メートル、高さ約2.3メートル
羨道:長さ約2.4メートル、幅約2.5メートル、高さ約2.3メートル

玄室の壁や天井は、それぞれ巨大な一枚石で構築されており、非常に整った構造をしています。床面は墳丘第一段の基壇面と一致しており、当時の高度な土木・石工技術をうかがい知ることができます。

築造時期と歴史的意義

車塚古墳の築造時期は、7世紀前半、すなわち古墳時代の終末期と推定されています。壬生地域の古墳群の中では、牛塚古墳に続く存在であり、最後の大型古墳と位置付けられています。

終末期の円墳としては国内最大級の規模を誇ることから、古代下野国における政治的中心勢力の存在を示す重要な証拠とされ、古代国家形成期の地方支配構造を考察する上でも欠かせない古墳です。

国史跡としての保存と調査

車塚古墳は、1926年(大正15年)に国の史跡に指定され、その後も史跡範囲の追加指定が行われています。近年では、2009年度および2014~2016年度にかけて本格的な発掘調査が実施され、壬生町立歴史民俗資料館や大学研究機関によって詳細な調査成果が報告されています。

観光と歴史学習の拠点として

現在、車塚古墳は良好な保存状態を保ち、周囲を散策しながら古代の歴史に触れることができます。近隣には壬生町立歴史民俗資料館もあり、出土資料や解説を通じて理解を深めることが可能です。

壬生町を訪れた際には、ぜひ車塚古墳に足を運び、雄大な墳丘とともに、古代下野の歴史ロマンを体感してみてはいかがでしょうか。

Information

名称
車塚古墳
(くるまづか こふん)

小山・栃木市

栃木県