黒い塀と蔵の建物が100メートル以上も立ち並び、その前には遊覧船が巴波川をゆったりと流れている、「小江戸とちぎ」「蔵の街」の象徴とも言える風景が広がっています。
栃木市は江戸時代から日光例幣使街道の宿場町として栄え、また、巴波川は江戸時代から明治時代にかけて江戸との舟運で北関東の商都として知られ、水上交通が栃木を繁栄させました。
今でも市内を流れる巴波川の岸辺や市中心部の蔵の街大通りには、黒塗りの堂々とした見世蔵や白壁の土蔵、商家が残っており、かつての繁栄を思い起こさせます。
栃木駅から新栃木駅まで約4kmにわたる蔵の街遊歩道があり、その道沿いに蔵と巴波川を眺めながら散策することができます。
蔵の街は、栃木県栃木市の栃木地域(旧下野国都賀郡栃木町と周辺地域)に広がる歴史的な景観の呼称です。
この地域は江戸時代末期から近代にかけての建物、特に土蔵造りの建物が多く残されており、そのため「蔵の街」と呼ばれています。この地域は川越や佐原と並んで「小江戸」とも称されています。
栃木市蔵の街は、かつて舟運の拠点として巴波川を利用し発展しました。また、江戸時代には日光例幣使街道が通り、その中で13番目の宿場である栃木宿としても栄えました。
商家が立ち並び、景観の基盤が形成されました。大火の影響で蔵が増え、明治時代には一時的に栃木県庁が置かれるなど、経済の中心地としても繁栄しました。
現在残る建物の多くは幕末から明治中期に建てられたものです。戦時中は空襲の被害を免れたため、大正時代や昭和初期の洋館も残っています。
しかし、近代化の進展に伴い、町並みは消滅の危機に直面しました。しかし、昭和末期から栃木県の事業指定を受け、修景や整備が行われ、文化財として保護しながら観光資源として活用されています。
また、巴波川も昭和期には水質や水量の問題に直面しましたが、鯉の放流や整備事業を通じて改善が図られ、美しい景観の一部となっています。
この蔵の街を含む48ヘクタールの地域は、「栃木市歴史的町並み景観形成地区」として1995年度に都市景観100選の一つに選ばれました。また、北側の嘉右衛門町地区は2012年に重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
蔵の街の特徴
栃木県内に位置する蔵の街は、巴波川の舟運と日光例幣使街道の陸運の恩恵を受けて発展しました。かつては川沿いに廻船問屋が並びましたが、現在では川沿いに残る屋敷は塚田家と横山家のみであり、蔵の分布は主に大通り(例幣使街道)に集中しています。
江戸時代の享保期(1716年〜1736年)以降、防火策として土蔵や塗屋の建築が奨励され、江戸や関東地方の他の都市にも蔵造りの建物が現れました。川越や佐原、結城などにはその面影が残されています。
栃木の蔵もその一環であり、江戸末期の関東地方における蔵の特徴をよく残していますが、結城の蔵と比べて2階の観音開窓がほとんど見られないという特色もあります。
屋根は桟瓦葺きであり、近隣の箱森で生産される土瓦が使用されています。通りに面した見世蔵には黒色の漆喰が好んで使われており、これは重厚感を演出するだけでなく、煤や油分を加えて撥水性を高めるためとも考えられています。
ただし、蔵の大部分は見世蔵の背後にある収蔵庫であり、こちらには白漆喰が使用されています。建物の年代は幕末から明治中期のものが多く、川越の豪壮な蔵と比べると、規模や造りは控えめです。
一般的に、宇都宮市大谷町へ近づくにつれて石蔵が増える傾向がありますが、栃木では横山家の石蔵を除いて、土蔵が主体です。
また、大正から昭和初期に建てられた木造洋館もいくつか現存しており、旧栃木町役場庁舎(栃木市立文学館)、栃木病院(杏林会栃木中央クリニック)、旧栃木駅舎(魔方陣スーパーカーミュージアムのエントランスとして移築)などがあります。
この地域に歴史的建造物が残っている理由として、かつて栃木県庁が置かれたものの宇都宮へ移転したため、過度な近代都市化が避けられたことや、戦災での焼失を免れたことが挙げられます。
JR・東武栃木駅から徒歩で約15分
東北自動車道 栃木ICより約15分