奈良時代に創建された日本の大本山で、東叡山・比叡山と並ぶ、日光の社寺を代表する広大な敷地を持つお寺です。
この輪王寺は、日光山全体を指す総称であり、山内には多くの支院が存在しています。
境内は2つのエリアに分かれており、東照宮に近い山内には三仏堂や宝物殿などがあり、多くの参拝者が訪れます。また、奥日光にも中禅寺や温泉寺があり、こちらも輪王寺の支院として機能しています。
歴史は非常に古く、奈良時代に遡ることができます。日光開山の祖である奈良時代の僧・勝道上人が766年に四本龍寺を建てたのが始まりで、その後、日光山全体を統合しました。日光山は、天台宗の三本山の一つとして位置づけられていました。
日光山輪王寺の最も重要な建造物である「三仏堂」には、日光三山の本地仏が祀られています。
この木造建築物は、日光山で最も大きな規模を誇り、千手観音(男体山)、阿弥陀如来(女峰山)、馬頭観音(太郎山)の三体の本尊が祀られています。
毎年4月2日には、「強飯式」と呼ばれる古い儀式が三仏堂で行われます。この儀式では、修験者が強飯頂戴人にたっぷりとご飯を勧めるというものです。強飯頂戴人がこの儀式を受けると、無病息災や家運長久などの幸運が授けられると信じられています。
また、本堂(三仏堂)の前庭にある500年以上の樹齢を持つ金剛桜は、国指定の天然記念物です。春には見事な花を咲かせ、参拝者たちを楽しませてくれます(見頃は4月下旬頃です)。
日光山輪王寺で人気の伝統行事の一つは、「御供加持(ごくうかじ)」と呼ばれるもちつきです。この行事では、12月21日に本堂(三仏堂)の本尊に餅を供えます。
山伏たちが力強く杵を振る様子は、日光山輪王寺の冬の風物詩となっています。山伏たちは年末までに約120キロの餅をつき、境内の約30ヶ所に供えることで、新年の準備を整えます。
輪王寺の庭園である「逍遥園」は、美しい紅葉で知られ、ライトアップのイベントも開催されるほどの名所です。その景観は見事で、訪れる人々を魅了しています。
明治時代初期以降、神仏分離令によって東照宮や二荒山神社とともに「二社一寺」と呼ばれるようになりました。かつてはこれらを総称して「日光山」と呼ばれていましたが、現在は「日光山」は輪王寺の山号として使用されています。また、「輪王寺」という名前は日光山内に存在する寺院群全体を指すこともあります。
輪王寺の境内は東照宮や二荒山神社とともに「日光山内」として国の史跡に指定されており、また「日光の社寺」として世界遺産にも登録されています。
日光の世界遺産である輪王寺で、歴史を感じながら散策してみませんか?その壮大なスケールと美しい景観は、訪れる人々に特別な体験を与えてくれることでしょう。
概要
輪王寺は、奈良時代に創建され、徳川家の庇護を受けて繁栄しました。国宝や重要文化財を多く所有しており、大猷院霊廟や三仏堂などの古い建築物も見どころです。
日光山内には、輪王寺の他にも東照宮や二荒山神社があり、「二社一寺」と総称されています。東照宮は徳川家康を神として祀る神社であり、二荒山神社と輪王寺は山岳信仰の寺社として奈良時代に創建されました。ただし、「二社一寺」という分類は明治時代以降のものであり、以前は神社や寺院が混在して「日光山」と呼ばれていました。
輪王寺には複数の建物が点在しており、東照宮や他の場所にも所属しています。建物の帰属が明確でないものもあり、現在も議論が続いています。
具体的には、東照宮の境内には本堂の三仏堂や寺務所があります。また、二荒山神社の西側には大猷院霊廟や常行堂、法華堂があります。さらに、中禅寺湖畔にある中禅寺(立木観音)も輪王寺に所属しています。
2016年から2017年にかけて、輪王寺開山1250年を記念して、秘仏「吉祥天」の一般公開が中禅寺立木観音で行われました。
本堂
本堂の三仏堂は東日本で最も大きな木造建築物です。現在の建物は徳川家光によって寄進され、1645年に完成しました。この本堂では日光三山の本地仏として三体の本尊が祀られています。以下に、各仏像の名称、山号、祭神(垂迹神)、および寸法を示します。
千手観音(男体山)= 新宮権現 = 大己貴命(おおなむちのみこと)- 総高703.6cm(本尊335.4cm)
阿弥陀如来(女峰山)= 滝尾(たきのお)権現 = 田心姫命(たごりひめのみこと)- 総高756.3cm(本尊306.3cm)
馬頭観音(太郎山)= 本宮権現 = 味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)- 総高744.7cm(本尊301.3cm)
これらの仏像は非常に大きいですが、制作時期や歴史的な経緯などは不明なため、文化財としての指定はされていません。今後の研究でその詳細が明らかにされることを期待されています。
日光山では山、神、仏が一体となって信仰されていました。輪王寺の本堂(三仏堂)には三体の本尊(千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音)が安置されており、このような信仰の形態に基づいています。
歴史
輪王寺は、奈良時代の僧で下野国出身の勝道上人によって創建されたと伝えられていますが、当時の歴史書にはその記録は見られません。輪王寺の寺伝によれば、開創の経緯は次の通りです。
天平神護2年(766年)、勝道上人と弟子たちは霊山である日光山の麓にたどり着きましたが、大谷川の激流が彼らの進む道を阻んでいました。そこへ、首から髑髏を下げた異様な姿の神、深沙大王が現れました。
深沙大王は2匹の大蛇を現れさせ、それらの蛇が両岸を結ぶ橋となり、勝道一行は無事に対岸に渡ることができたと伝えられています。
現在、日光のシンボルである「神橋」はこの伝説の場所に架かっており、「山菅蛇橋」とも呼ばれています。
深沙大王は、唐の玄奘三蔵が仏法を求めて天竺(インド)を旅した際に危機を救った神とされています。神橋の北岸には今も深沙大王の祠が建っています。
大蛇の話は伝説であり実話ではありませんが、この伝説は日光山が古くから山岳信仰の聖地であったことや、日光山が難所であったことを反映していると考えられます。
勝道上人は、大谷川の対岸に聖地を見つけ、千手観音を安置する一つの寺院を建てました。最初は「紫雲立寺」と呼ばれていましたが、後に「四本龍寺」と改名されました。
現在の輪王寺の場所から1km以上離れた場所に、稲荷川(大谷川の支流)の近くにあったとされています。現在、四本龍寺の旧地には観音堂と三重塔(国の重要文化財)が建っています。
翌年の神護景雲元年(767年)、勝道上人は四本龍寺の隣の土地に男体山(二荒山)の神を祀る神社を建立しました。これが二荒山神社の始まりです。
現在は「本宮神社」と呼ばれる場所がそれに該当します。なお、勝道がこの神を祀ったのは延暦9年(790年)とする説もあります。
天応2年(782年)、勝道上人は日光の神体山である男体山(標高2,486メートル)に登頂に成功しました。
男体山は観音菩薩の住処とされる補陀洛山に由来して「二荒山」と名付けられ、後に「ニコウ=日光」と呼ばれるようになり、それが「日光」という地名の起源とされています。男体山頂遺跡からは奈良時代の仏具などが出土し、山岳信仰の聖地であったことが確認されています。
延暦3年(784年)、勝道上人は四本龍寺の西に位置する男体山麓の湖(中禅寺湖)のほとりに中禅寺を建立しました。これは冬季の男体山遥拝所として作られたものです。
現在、「立木観音」として知られる中禅寺は現存していますが、当初は湖の北岸にあった建物が明治時代の山津波で流され、現在は湖の東岸に移転しています。
平安時代
輪王寺は創建以降、真言宗の宗祖である空海や天台宗の高僧である円仁(慈覚大師)などが訪れたと伝えられています。円仁は848年に訪れ、三仏堂や常行堂、法華堂などを建立したとされています。
この時期から輪王寺は天台宗の寺院として発展していきました(現存するこれらの堂はいずれも近世に再建されたものです)。
"常行堂"や"法華堂"という同じ形式の堂が2つ並ぶスタイルは、天台宗に特有のもので、延暦寺や寛永寺でも同様の堂が建てられています。
鎌倉時代
1240年から1242年ごろ、源実朝によって本堂が現在の日光東照宮の場所に移されました。それ以降、幕府や関東地方の有力豪族の支援を受けて栄えました。男体山、女峰山、太郎山の三山の神を「日光三所権現」として崇拝する信仰がこの時期に定着したようです。
戦国時代
戦国時代には、壬生綱房の策略により輪王寺は事実上壬生氏の保護下に入りました。1590年の豊臣秀吉の小田原征伐の際には、輪王寺が北条氏に協力したために寺領を没収され、一時衰退しました。
江戸時代
近世に入り、天台宗の高僧である天海の下で復興が進みました。1617年には徳川家康を神として祀る東照宮が設けられ、その際に本堂は現在の日光二荒山神社の社務所の近くに移されました。
1647年には徳川家光によって倒壊した本堂が再建され、現在の大きさ(幅33m、奥行22m、高さ26m)となりました。
1653年には徳川家光の霊廟である大猷院霊廟が設けられました。大猷院霊廟は東照宮とは異なり、仏寺式の建築であり、近代以降、輪王寺が所有しています。
1655年には後水尾上皇の院宣により、「輪王寺」という寺名が授けられ(それまでは平安時代の嵯峨天皇から授けられた「満願寺」の寺名でした)、後水尾天皇の第3皇子である守澄法親王が入寺しました。
以降、輪王寺の住職は法親王(皇族の男性が出家したもの)が務め、関東に常駐する皇族として「輪王寺門跡」または「輪王寺宮」と呼ばれるようになりました。この門跡は世襲ではなく、宮家として認識されました。
寛永寺の門跡と天台座主の両方を兼務し、"三山管領宮"とも称されました。後に還俗し北白川宮能久親王となった公現法親王も、輪王寺門跡の出身でした。輪王寺宮は輪王寺と江戸上野の輪王寺、寛永寺(徳川将軍家の菩提寺)の住職を兼ね、比叡山、日光、上野の全てを管理する強大な権威を持っていました。
東国に皇族を常駐させることで、西国で皇室を称して倒幕勢力が立ち上がった場合には、関東では輪王寺宮を"天皇"として擁立し、徳川家を一方的な"朝敵"とせずに済むような安全装置として機能していたとも言われています(参考:奥羽越列藩同盟、北白川宮能久親王(東武皇帝))。
明治以後
明治2年(1869年)の戊辰戦争後、明治政府によって輪王寺の称号が取り上げられ、かつての名前である「満願寺」に戻されました。
明治4年(1871年)には神仏分離令が施行され、政府からの圧力により本堂は現在の場所に移転することになりました。
当初、三仏堂は取り壊される予定でしたが、木戸孝允の尽力により取り壊しは中止され、旧観のまま移築されて輪王寺の本堂となりました。さらに、輪王寺宮本坊も焼失しました。
しかし、明治15年(1883年)に栃木県の尽力によって輪王寺が正式な寺名として認められました。
三仏堂の平成大修理
2007年(平成19年)から2018年まで、三仏堂は大規模な修理工事が行われました。
輪王寺 宝物殿
日光山の1200年以上にわたる歴史を物語る貴重な資料(什宝)を保存しています。
収蔵庫には、国宝 大般涅槃経集解(だいはつねはんきょうしゅうげ)59巻、重要文化財51件・1618点、重要美術品4件・7点を含む、約3万点の什宝が保管されており、常時約50点が拝観室で展示されています。
また、徳川家康公をはじめとする貴重な宝物の常設展示も行われています。
逍遥園
日光で有名な紅葉の名所であり、輪王寺門跡の庭園として江戸時代初期に作庭されました。一説には、庭師の小堀遠州が手掛けたと伝えられており、完成したのは寛永年間です。
その後、何度も改修が行われ、江戸時代全体を通じて変化が見られる興味深い名園です。
この小規模ながら美しい庭園では、苔むした池泉回遊式の景観が楽しめます。男体山を遠くに望むことができ、借景庭園としても魅力的です。
池の中央には小さな島があり、板と石の2つの橋がかかっています。枯滝組や巨石を使った滝石組は立派で、豪華な趣を演出しています。
春にはシャクナゲ、ツツジ、サツキの花が咲き誇り、秋には紅葉が彩りを添えます。
4月~10月 8:00~17:00
11月~3月 8:00~16:00
無休
三仏堂・大猷院・宝物殿セット券
大人 1,000円
小中学生 500円
輪王寺券(三仏堂・大猷院)
大人 900円
小中学生 400円
三仏堂・宝物殿セット券
大人 500円
小中学生 300円
単独拝観券(三仏堂)
大人 400円
小中学生 200円
単独拝観券(大猷院券)
大人 550円
小中学生 250円
単独拝観券(宝物殿・逍遥園)
大人 300円
小中学生 100円
電車・バス:JR日光線 日光駅・東武日光線 東武日光駅から東武バス中禅寺温泉行きまたは湯元温泉行きで約7分「神橋」下車徒歩約7分
または世界遺産めぐりバスで約10分「勝道上人像前」下車すぐ
車:日光宇都宮道路 日光ICから約5分