かつて「日本一の鉱都」と呼ばれ、栄えた歴史を持つ銅山です。その坑内を観光することができます。閉山後、一部の坑道が開放され、トロッコ電車に乗って薄暗い坑道を進むと、当時の鉱石採掘の様子がリアルな人形で再現されています。
また、銅の製錬過程などが展示されている「銅資料館」などの資料館も併設されています。敷地内にはレストハウスもあります。
毎年8月にはナイトツアーが開催され、足尾銅山ならではの体験型イベントなどが楽しめます。
足尾銅山の坑道跡を活用して1980年に開設されました。坑内電車に乗って全長700メートルの坑道を見学することができます。
途中では39体の人形を使って銅鉱採掘の様子が再現されており、足尾銅山記念資料室やレストハウスも坑道入り口前にあります。
足尾銅山は1610年に備前楯山で初めて銅が発見されて以来、江戸幕府直営の銅山として栄えました。1877年には古河市兵衛によって民営化され、最新の技術や設備により急速に発展し、日本一の銅山に成長しました。
現在は足尾銅山観光として、坑内の一部が開放され、その歴史や仕組みなどを知ることができるようになっています。
足尾銅山(あしおどうざん)は、栃木県日光市足尾地区にあった銅山です。かつて「足尾銅山跡」として国の史跡に指定されています。
足尾銅山は1550年に発見されたとされ、1610年になると百姓2人が鉱床を発見し、江戸幕府直轄の鉱山として本格的な採掘が始まりました。幕府は足尾に鋳銭座を設け、銅山は繁栄し、「足尾千軒」と呼ばれる町の発展を見せました。採掘された銅は日光東照宮や江戸・増上寺の建材などに使用され、寛永通宝という代表的な通貨も鋳造されました。江戸時代には年間1,200トンの銅が産出されるピーク時期もありました。しかし、一時期は採掘量が激減し、幕末から明治初期にはほぼ閉山状態となりました。明治4年に民営化されましたが、銅の産出量は年間150トンまで落ち込みました。
足尾銅山の将来性には悲観的な意見も多かった中、1877年に古河市兵衛が経営に着手し、数年間は成果が出ませんでしたが、1881年に有望な鉱脈が発見されました。その後、探鉱技術の進歩によって次々と有望な鉱脈が見つかりました。古河市兵衛の死後、1905年には古河鉱業として会社組織が設立されました。明治政府の富国強兵政策を背景に、足尾銅山は日立鉱山や別子銅山と共に急速な発展を遂げ、20世紀初頭には日本の銅産出量の40%を占める大銅山に成長しました。
しかし、この鉱山開発と製錬事業の発展には裏がありました。足尾山地の樹木が伐採されて坑木や燃料として利用され、鉱石の製錬工場から排出される煙が大気汚染を引き起こしていました。足尾山地の荒廃が原因で渡良瀬川は頻繁な洪水を引き起こし、鉱業による廃棄物が川を流れ、水質や土壌の汚染が広がり、大規模な環境汚染(公害)を引き起こしました。この事件は「足尾鉱毒事件」として知られています。1891年に田中正造が国会で問題提起し、大きな政治問題となりました。1890年代から鉱毒予防工事や渡良瀬川の改修工事が行われましたが、鉱毒被害は収束しませんでした。
1973年に採鉱が停止され、足尾銅山は閉山しました。鉱山開発で掘り進められた坑道の総延長は1,234キロメートルに達しました。閉山後も自社の水力発電所と工業用水が山腹の水を利用していたため、製錬事業は一部継続されましたが、1989年にJR足尾線の貨物足尾銅山(あしおどうざん)は、栃木県日光市足尾地区に位置する、歴史的な銅山です。足尾銅山跡は国の史跡に指定されており、その由緒ある遺産を訪れることができます。
足尾銅山は1550年に発見され、1610年からは江戸幕府の直轄鉱山として本格的な採掘が行われました。幕府は足尾に鋳銭座を設け、銅山は繁栄し、足尾の町は「足尾千軒」と称されるほど栄えました。採掘された銅は日光東照宮や増上寺などで利用され、寛永通宝としても鋳造されました。江戸時代には年間1,200トンもの銅が産出されましたが、一時期は採掘量が減少し、幕末から明治初期には閉山状態となりました。その後、古河市兵衛が経営に乗り出し、1881年に有望な鉱脈が見つかりました。技術の進歩によって次々と鉱脈が発見され、足尾銅山は日本有数の銅山として発展しました。
しかし、鉱山の発展と製錬事業の裏には環境問題も存在しました。鉱山の運営に伴う木材伐採や排煙による大気汚染が問題となりました。足尾山地の荒廃により渡良瀬川は洪水が頻発し、鉱業による廃棄物が流れ、周辺地域の水質や土壌が汚染されるという公害問題が起こりました。これが「足尾鉱毒事件」として知られています。
足尾銅山は1973年に採鉱が停止し、鉱山の歴史は終わりを告げました。その後も一部の施設は産業廃棄物のリサイクルなどに利用されましたが、製錬事業は停止しました。しかし、足尾銅山の歴史を伝えるために、「足尾銅山観光」施設が開設され、トロッコに乗って坑道内を見学することができます。また、近隣には古河足尾歴史館もあり、足尾鉱毒事件を含めた歴史を学ぶことができます。
足尾銅山は豊かな歴史を持つ銅山であり、その発展と環境問題の両面から注目を集める存在です。
公害
周辺の山林では、鉱毒(亜硫酸ガス)による被害の他、坑木の伐採、人口増加に伴う山火事、薪炭確保のための伐採などが行われ、荒廃が進みました。1892年に導入されたベッセマー精錬により鉱石の生産が増え、亜硫酸ガスの煙害も大きくなりました。1956年に自熔鉱が導入されるまで鎮静化は進まず、現在でも治山事業が行われています。
鉱山
備前楯山と呼ばれる銅山が1つありますが、他の山では銅は産出しませんでした。
坑口
本山坑(有木坑)、小滝坑、通洞坑の3つの坑口があります。本山坑から小滝坑は直線的につながっており、通洞坑はこの太い坑道に横から接続しています。そのため、3つの坑口を結ぶ坑道はT字型の形状をしています。小滝坑は1954年に閉鎖され、最後まで使用されたのは本山坑と通洞坑でした。実際には本山坑と有木坑の位置に微妙な違いがあり、それ以外にも近くに本口坑が存在しました。通常、これら3つの坑口をまとめて「本山坑」と呼びます。有木坑は最初は梨木坑と呼ばれていましたが、縁起を担ぐために有木に変更されました。また、簀子橋という坑口もあります。規模は小さく、通洞坑とほぼ同じと見なされますが、名目上は独立していました。現在の簀子橋堆積場の近くに存在しました。
選鉱場
通洞地区に設置されています。最初は女性労働者が目視で鉱石を判別・選鉱していたとされています。1918年には鉱石をボールミルで微細粉末にする浮遊選鉱法が導入され、シックナーで捕集されたものの、渡良瀬川は白濁しました。
製錬所
最も大きなものは本山地区にあり、小滝地区にも小規模な製錬所がありました。鉱石から銅が製錬されました。1960年代以降は、製錬時に発生する亜硫酸ガスを回収して硫酸を製造し、これも出荷されました。
浄水場
1897年、政府は鉱毒防止策として足尾の鉱山施設から出る水を沈殿させるよう命じました(第二回予防命令)。閉山後も浄水施設の運用が続けられ、本山浄水場と中才浄水場の2か所が2007年時点でも稼働しています。小滝にも浄水場がありましたが、規模が小さかったため中才に統合されました。足尾銅山の公式な排水口は、精錬工場排水口、精錬カラミ排水口、本山浄水排水口、中才浄水排水口、簀子橋堆積場上澄水排水口の5か所がありましたが、精錬を廃止したため、中才浄水場と簀子橋堆積場以外では処理水の排水は行われません。中才浄水場では通常時の坑内浸透水や降雨時の堆積場からの流出水をアルカリ性に変化させ金属を沈殿させ、固液分離した後、中性に戻して渡良瀬川に放流されています。坑内からの浸透水が流出し続ける限り、中才浄水場は廃止できません。
堆積場
鉱石くず(銅含有量の少ない鉱石、選鉱汚泥、カラミ)などを貯めている場所で、鉱滓ダムとも呼ばれます。足尾町内には公表されているものを含めて14か所の堆積場があります(小滝堆積場は1990年に搬出が完了し、現在は13か所)。その他にも法律によらない未公表の堆積場や坑内に捨てられた石の集積場などもあります。
周辺の山林では、鉱毒(亜硫酸ガス)による被害や、坑木の伐採、人口増による山火事、薪炭の確保のための伐採などにより荒廃が進みました。1892年に導入されたベッセマー精錬により生産が増加し、亜硫酸ガスの煙害も拡大しました。1956年に自熔鉱が導入されるまで鎮静化は進まず、現在でも治山事業が続けられています。
鉱山
備前楯山という銅山が1つありますが、他の足尾近辺の山では銅は産出されませんでした。
坑口
本山坑(有木坑)、小滝坑、通洞坑の3つの坑口が存在します。本山坑から小滝坑は直線的につながっており、通洞坑はこの太い坑道に横から接続されています。そのため、3つの坑口を結ぶ坑道はT字型の形をしています。小滝坑は1954年に閉鎖され、最後まで使用されたのは本山坑と通洞坑でした。実際には本山坑と有木坑の位置に微妙な違いがあり、それ以外にも近くに本口坑が存在しました。通常、これら3つの坑口を総称して「本山坑」と呼びます。有木坑は最初は梨木坑と呼ばれていましたが、縁起を担ぐために有木に改名されました。また、簀子橋という別の坑口もあります。規模は小さいですが、通洞坑とほぼ同じと見なされることが多いですが、名目上は独立した存在でした。現在の簀子橋堆積場の近くに存在していました。
選鉱場
通洞地区に設置されています。最初は女性労働者が目視で鉱石を判別し、選鉱作業を行っていました。1918年には鉱石をボールミルで微細粉末にして浮遊選鉱法を導入し、シックナーで鉱石を捕集しましたが、渡良瀬川は白濁しました。
製錬所
最も大きな製錬所は本山地区にあり、小滝地区にも小規模な製錬所がありました。鉱石から銅が製錬されました。1960年代以降は、製錬時に発生する亜硫酸ガスを回収し、硫酸を製造して出荷していました。
浄水場
1897年、政府は鉱毒防止策として足尾の鉱山施設から出る水を沈殿させるよう命じました(第二回予防命令)。閉山後も浄水施設が稼働し続け、本山浄水場と中才浄水場の2か所が2007年時点でも運用されています。小滝にも浄水場がありましたが、規模が小さかったため、中才に統合されました。足尾銅山の公式な排水口は、精錬工場排水口、精錬カラミ排水口、本山浄水排水口、中才浄水排水口、簀子橋堆積場上澄水排水口の5か所でしたが、精錬を廃止したため、中才浄水場と簀子橋堆積場以外では処理水の排水は行われていません。中才浄水場では通常時の坑内浸透水や降雨時の堆積場からの流出水をアルカリ性に変化させ、金属を沈殿させた後に固液分離し、中性に戻して渡良瀬川に放流されています。坑内からの浸透水の流出が続く限り、中才浄水場は廃止することができません。
堆積場
鉱石くず(銅含有量の少ない鉱石、選鉱汚泥、カラミ)などを貯める場所であり、鉱滓ダムとも呼ばれます。足尾町内には公表されている堆積場が14箇所あります(小滝堆積場は1990年に搬出が完了し、現在は13箇所)。それ以外にも法的な基準を満たさない堆積場や坑内からの石の捨て場などが中央グラウンドや旧社員住宅跡地などに存在します。これらの使用済み堆積場のうち、有越沢堆積場など一部は緑化や鉱害対策が行われましたが、今後も管理と補植作業が必要とされています。また、簀子橋堆積場は現在も中才浄水場から発生する汚泥の排出先として使用され、沈殿後の上澄水を排出しています。
社員住宅
社宅は主に坑口の近くに建てられ、ほとんどの鉱夫は徒歩で通勤していました。周辺には小学校や商店なども建設されました。閉山後は無人となり、現存しているものはほとんどありません。
神社
本山坑の向かいの山頂付近に「本山鉱山神社」があります。本殿と拝殿の2つの建物がありますが、どちらも放棄されています。また、通洞坑にも別の神社があり、足尾銅山観光出口付近に拝殿があります。
鉄索
足尾ではケーブルカー(索道)を「鉄索」と呼んでいました。1890年にはまず、細尾峠を越えて日光を結ぶ路線が作られました。最も大規模なものは本山坑から銀山平を経て小滝坑に向かい、さらに利根村根利に至る路線です。物資や鉱石の輸送に利用され、足尾町内には複数の大規模な鉄索が建設されましたが、閉山後には全て撤去されました。登山家の輸送にも使用されたという記録も残っており、鉱夫などの通勤にも利用されたようです。
鉄道
人や物資の輸送のために町内の道路に線路が敷設されました。最初は馬車鉄道であり、後にはほぼ同じ路線でガソリンカーが運行されました。初期の馬車鉄道が後に鉄索や鉄道に切り替えられた場所も多かったです。
9:00〜17:00
無休
大人 830円
小・中学生 410円
電車・バス:わたらせ渓谷鐵道通洞駅から徒歩約5分
JR日光駅または東武日光駅から市営バスで53分
車:日光宇都宮道路日光ICから約30分