宇都宮の地名は、この神社がかつて下野の「一の宮」と呼ばれていたことに由来していると言われています。
宇都宮の歴史は、二荒山と共に歩んできたと言われており、約1,600年前に始まりました。
神社の歴史は古く、創建は約1,600年前にまでさかのぼり、宇都宮の始祖である豊城入彦命を祀ったのが始まりでした。
宇都宮は二荒の杜を中心に栄える街であり、今も昔も二荒山神社は宇都宮の人々の心の拠り所です。
市内の祭りのほとんどは二荒山の祭りであり、お正月や七五三、受験祈願など、暮らしの節目ごとに多くの市民が参拝しています。
神社には鉄で作られた狛犬と、美しい三十八間星兜という貴重な宝物があります。どちらも国の重要美術品に指定されています。夜には参道と門が美しくライトアップされます。
宇都宮二荒山神社は、宇都宮市にある神社です。式内社(名神大社)の一つであり、下野国一宮としても知られています。かつては国幣中社の社格を持ち、現在は神社本庁の別表神社に属しています。神紋は「三つ巴(菊に三つ巴)」です。
正式な名称は「二荒山神社」ですが、日光にある同名の神社と区別するため、「宇都宮二荒山神社」と呼ばれています。また、かつては「宇都宮大明神」とも呼ばれていました。一般的には「二荒さん」とも通称されています。
この神社は宇都宮市の中心部、明神山(臼ヶ峰、標高約135m)の山頂に鎮座しています。
豊城入彦命を主祭神とし、古くから崇敬されてきました。宇都宮はこの神社の門前町として発展してきました。また、宇都宮氏として知られる一族は社家から武家になったことでも有名です。
社殿は創建以来何度も火災に遭いましたが、現在の社殿は明治10年(1877年)に戊辰戦争の焼失後に再建されました。
この神社は国の重要美術品に指定されている三十八間星兜や鉄製の狛犬などの文化財を所蔵しています。
社伝によれば、宇都宮二荒山神社の歴史は仁徳天皇41年に遡ります。その時、毛野国が下野国と上野国に分かれ、下野国の国造になった奈良別王が曽祖父である豊城入彦命をこの地域の氏神として祀ったことから始まったと伝えられています。ただし、それ以前にも豊城入彦命によって三輪山から勧請された大物主命が祀られていたとも伝えられています。地元では、この神社に参拝すると下野国の全ての神社の恩恵を受けられると信じられ、人々の信仰を集めました。
最初の鎮座地は現在の場所から大通りを隔てた南側の荒尾崎(現在は摂社下之宮が鎮座)でしたが、承和5年(838年)に現在の場所である臼ヶ峰(明神山)に遷座しました。
「二荒山神社」という名前を持つ神社は関東地方を中心にいくつも存在しますが、特に宇都宮二荒山神社と日光の二荒山神社の2つが古い神社として知られています。平安時代中期の『延喜式神名帳』には、「下野国河内郡 二荒山神社」として記載されていますが、日光社との間で帰属を巡る議論があります(「二荒山神社」を参照)。その後、神階は正一位まで進み、下野国の一宮とされました(ただし、日光社も一宮を称しています)。
豊城入彦命は武勇にもすぐれ、藤原秀郷、源頼義、源義家、源頼朝、徳川家康などの有名な武将たちも戦勝祈願を行い、さまざまな寄進や社殿の改築を行ったと伝えられています。平将門の乱では、藤原秀郷がこの神社で授かった霊剣を使って将門を討ったと言われています。また、『平家物語』によれば、屋島の戦いで那須与一が平家の船上で的を射る際に、「日光権現、宇都宮、那須の温泉大明神」と祈ったとされています。
さらに、宇都宮氏の初代当主であり、宇都宮城を築いたとされる藤原宗円が当社の宮司を務めたという説もあります。宇都宮氏は、藤原宗円がこの地域の豪族で当時の当社の座主だった下毛野氏または中原氏と姻戚関係を結び、土着したことから始まりました。宇都宮氏は毛野川(当時の鬼怒川)流域一帯を支配し、平安時代末期から約500年間にわたって関東地方の治安維持に貢献した名家です。庶流には常陸国守護の小田氏や武茂氏がおり、また毛野川東岸および小貝川流域一帯を支配した紀清両党とも姻戚関係にありました。
「宇都宮」という地名は、この神社に由来するとされています。ただし、一宮(いちのみや)の訛りという説、遷座したことから「移しの宮」の転という説、「二荒山の神の現宮(うつつのみや)」という説、豊城入彦命が東国の総監としてこの地に住んで国を治めたことから「宇津くしき宮」と呼ばれ、それが「うつのみや」に転じたという説などがあります。
明応9年(1498年)には17代当主宇都宮成綱によって社殿が建て替えられました。明治20年(1887年)3月17日には内務省の訓令第15号「官国幣社保存金制度」により、15年間にわたって官国幣社保存金が配分されました。
2014年には「火焔太鼓山車」が修復されました。また、2016年には1913年まで菊水祭で使用されていた「桃太郎山車」が修復され復活しました。桃太郎山車は全長約3.7m、幅約2.7m、最大の高さ約5.65mです。2016年には戊辰戦争で新政府軍が下野の戦いで使用した菊の紋章の旗2点が当社で発見されました。白生絹御紋之旗は白い絹に墨で菊が描かれており、縦332.4cm、横58.9cmの大きさで「宇都宮藩奉納」と書かれています。菊御紋紅大四半は紅色の絹に菊が描かれており、縦164.8cm、横154.9cmの大きさで「野津参謀奉納」と書かれています。
境内
当社の社殿は、以前は20年ごとに建て替えられていました。しかし、戦国時代以降は戦火や失火によって何度も焼失しました。具体的には、1585年の後北条氏による宇都宮侵攻、1773年の宇都宮宿の大火、1832年の火災、そして1868年の宇都宮戦争(戊辰戦争)の第1次宇都宮城攻城戦の際に焼失しています。現在の社殿は、明治10年(1877年)に明治新政府によって仮社殿として再建されたものです。正面の石垣は江戸時代のものであり、弘化3年に建てられたことが記されています。
本殿は神明造であり、祭事の神楽は神楽殿で行われます。また、境内には神門、拝殿、明神の井があります。宇都宮にはいくつかの湧水があり、明神の井の湧き水は江戸時代には宇都宮名水「七水」の一つとして知られていました。明治天皇が宇都宮を訪れた際には、この水を茶の湯に使ったと伝えられています。
境内にはまた、樹齢400年の栃木県産のケヤキを使った高さ9.7m、幅13.8mの大鳥居があります。この鳥居は江戸時代の同神社の両部鳥居を復元したものです。かつて存在した鳥居は第二次世界大戦中の空襲で焼失し、その後1946年に明神鳥居が建てられましたが、老朽化のため、2008年に現在の鳥居が建てられました。
無休
東武宇都宮線 東武宇都宮駅から徒歩約10分
JR宇都宮駅から市内バス約5分、馬場町(二荒山神社前)下車
鹿沼ICから約20分
宇都宮ICから約25分
宇都宮上三川ICから約30分