栃木県 » 佐野・足利

足利学校

(あしかが がっこう)

ザビエルも世界に紹介した日本最古の学校

国の史跡に指定されている日本で最も古い学校です。学校の創立については明確な情報がなく諸説あり、正確なことはわかっていません。

平安初期に小野篁によって創設されたという説があります。また室町時代中期以降、1439年に関東管領の上杉憲実が鎌倉の円覚寺の僧である快元を初代庠主に迎えて学校を整備し、学則を制定し学生を育成しました。

激しい戦乱の中でも学問の継続を保ち、3,000人以上の学生を輩出しました。その実績は著しく、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルによって海外にも紹介されました。

現在では江戸時代の姿を再現し、一般公開されています。訪れた人々は当時の学生たちがどのような環境で学び、勉強していたのかを見学することができます。

また、日曜日には参加者全員が大きな声で論語(ろんご)を読み上げる素読(そどく)体験プログラムも行われています。

堂中の中央には孔子の坐像があり、右側には足利学校の創設者と言われる小野篁の像が、左側には徳川家康の神位が祀られています。

聖廟の左側には足利学校遺跡図書館があり、多くの古文書が保存されています。

創設は平安時代初期または鎌倉時代とされており、足利学校跡は大正10年に国の史跡に指定され、平成27年には「日本遺産」にも認定されました。この学校は下野国足利荘(現在の栃木県足利市)に位置し、高等教育機関としての役割を果たしていました。

足利学校は応仁の乱以降の戦乱の時代でも栄え、伝えられるところによれば、学徒は3,000人以上も在籍していたと言われています。

この学校は室町時代から戦国時代にかけて、関東地方で最も権威ある学府として知られていました。

特に天文18年(1549年)には、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルによって「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」として世界に紹介されました。

1872年には廃校となりましたが、その後も足利市民の間で保存運動が展開され、地域のシンボルとして大切にされてきました。

足利学校の跡地には、堂中の中央には孔子の坐像が祀られており、右には創立者とされる小野篁、左には徳川家康の神位が祭られています。また、聖廟の左側には足利学校遺跡図書館があり、多数の古文書が保管されています。ここは歴史を感じ、懐かしい気持ちになるスポットです。

足利学校は、明治元年(1868年)まで存続し、その後は図書館として利用されるようになりました。廃校後は組織としての存在はなくなり、建物の一部や孔子廟などわずかな遺構が残る時期もありました。

しかし、再評価を受けて、平成2年(1990年)に方丈や庭園が復元され、一般に公開されるようになりました。

現在は足利市の重要な文化的拠点として位置づけられ、市民の心のよりどころや生涯学習の場として活用されています。管理は教育委員会が行っています。

足利学校は創建年代について諸説があり、長らく論争が続いています。

室町時代の前期には衰退していたものの、1432年(永享4年)に上杉憲実が足利の領主になり、学校の再興に尽力しました。彼は鎌倉円覚寺の僧である快元を学校の責任者に迎え、蔵書を寄贈して学校を盛り上げました。快元は後に「庠主(しょうしゅ)」と呼ばれる学校の責任者となり、その後も庠主は全国各地から引き継がれました。

1447年(文安4年)、上杉憲実は足利荘及び足利学校に3か条の規定を定めました。この中で、足利学校で教えるべき学問を限定し、教育内容から仏教色を排したことが特徴です。そのため、儒学が中心となりましたが、快元の豊富な知識により易学や兵学、医学なども教えられました。戦国時代には足利学校の出身者が実践的な学問を身に付け、戦国武将に仕えることがよくありました。

享禄年間(約1530年頃)には火災で一時的に衰退しましたが、第7代庠主である九華が北条氏政の保護を受けて学校を再興し、学生数は3000人に達する盛況を迎えました。この頃の足利学校は海外にも知れ渡り、キリスト教の宣教師ザビエルもその名を記しています。

しかし、1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐により庇護者を失い、学校の財源が奪われました。それでも第9代庠主三要が徳川家康の保護を受け、学校を守り抜きました。江戸時代に入ると朱子学の官学化によって足利学校の学問は時代遅れとなり、衰退していきましたが、足利近郊の人々が学ぶ郷学として繁栄を迎えました。

江戸時代に入ると、足利学校は100石の土地を寄進され、毎年初めにその年の吉凶を占う年籍を幕府に提出するようになりました。また、足利の領主たちによっても保護され、足利周辺の人々が学ぶ郷学として、江戸時代の前期から中期にかけて二度目の繁栄を迎えました。

しかし、江戸時代には京都から関東に伝わった朱子学の官学化によって、足利学校の学問は易学中心で時代遅れとなりました。また、平和な時代が続いたため、易学や兵学などの実践的な学問が好まれなくなり、足利学校は衰退していきました。学問の中心としての役割は早くに薄れ、江戸時代の学者たちは貴重な古典書を所蔵する図書館として足利学校に注目するだけでした。

明治維新後、足利藩は足利学校を藩の学校として復興しようと試みましたが、明治4年(1871年)に廃藩置県が行われ、足利学校は足利県(後の栃木県に統合)の管理下に移り、明治5年(1872年)に廃校となりました。

廃校後、敷地の東半分は小学校に転用され、建物の多くは撤去されました。また、栃木県は足利学校の蔵書の一部を県に譲渡しようとしたため、足利学校の建物と蔵書は散逸の危機に瀕しました。しかし、旧足利藩士の田崎草雲らの活動により、蔵書は地元に返還され、孔子廟を含む足利学校の西半分も地元に返還されました。

地元の足利町は1903年(明治36年)に、足利学校の敷地内に栃木県初の公共図書館である足利学校遺蹟図書館を設立し、足利学校の旧蔵書を保存し、一般の図書も収集して公開しました。さらに、1921年(大正10年)には足利学校の敷地と孔子廟、学校門などの建物が国の史跡に指定され、保存が進められることになりました。

1980年代に入ると、小学校が移転し、遺蹟図書館の一般図書は県立足利図書館に移管され、史跡の保存整備が開始されました。そして、1990年(平成2年)に建物と庭園の復元が完了し、江戸時代中期の最盛期の姿が再現されました。

2015年(平成27年)4月24日には、「近世日本の教育遺産群 ―学ぶ心・礼節の本源―」の一部として、足利学校が国の日本遺産に認定されました。

Information

名称
足利学校
(あしかが がっこう)
リンク
公式サイト
住所
栃木県足利市昌平町2338
電話番号
0284-41-2655
営業時間

4月〜9月 9:00〜17:00
10月〜3月 9:00〜16:30

定休日

第3水曜日(10月、11月は第2水曜日)
12/29〜12/31
※管理上やむを得ず休館することがあります。

料金

一般 420円
高校生 220円
中学生以下 無料

駐車場
無料 40台
アクセス

JR両毛線 足利駅 北口から徒歩約10分
東武伊勢崎線 足利市駅 北口から徒歩約15分

北関東自動車道 足利ICから約15分
北関東自動車道 太田桐生ICから約20分

佐野・足利

栃木県